北条邦時は、北条時行の異母兄として『逃げ上手の若君』第1話・第2話に登場し、五大院宗繁の裏切りによって幼くして命を落とした人物です。
史実でも邦時は、第14代執権で最後の得宗・北条高時の長男として後継者に位置づけられましたが、1333年の鎌倉幕府滅亡後に捕らえられ、数え年9歳で処刑されたと伝わります。
この記事には、アニメ第1回・第2回および原作序盤の内容と、北条邦時の最期に関する史実のネタバレが含まれます。
北条邦時の要点|北条時行の兄はどんな人物?
北条邦時について先に押さえたいのは、時行の兄であるだけでなく、鎌倉幕府を実質的に率いた得宗北条家の後継者だったことです。
作中の登場時間は短いものの、その死は時行が背負う喪失と「逃げて生きる」意味を強く印象づけています。
北条邦時の生涯、重すぎるって。
まだ自分の進路どころか、その日の遊び方を考えていてもおかしくない年齢で、邦時は「北条家の後継者」という政治的な意味を背負わされました。
しかも最後に命を預けた相手は、母方の親族でもあった五大院宗繁です。
敵に追いつかれたというより、信じた大人に逃げ道を売られた。
この事実こそ、邦時の悲劇を理解する最大のポイントです。
『逃げ上手の若君』の北条邦時は何話に登場する?
『逃げ上手の若君』の北条邦時は、原作漫画の第1話「滅亡1333」と第2話「鬼ごっこ1333」に登場します。
テレビアニメでは第1回「5月22日」で時行との関係が描かれ、第2回「やさしいおじさん」で五大院宗繁の裏切りと邦時の最期が明らかになります。
アニメ第1回の北条邦時と時行の関係
アニメ第1回に登場する邦時は、弟の時行と対立する野心的な後継者ではありません。
時行とは異母兄弟という設定ですが、兄弟仲は良好に描かれています。
得宗家の跡継ぎでありながら、邦時は家督への強い執着を見せません。
武芸の稽古から逃げ回る時行に対しても、後継者争いの相手として敵意を向けるような人物ではないのです。
ここ、地味に見えて心へ刺さる。
兄が権力欲にまみれた人物なら、後の悲劇を「北条家の内紛」として距離を置いて見られます。
しかし作中の邦時は、時行にとって失いたくない家族です。
だからこそ、幕府滅亡によって兄弟の日常が一瞬で断ち切られる展開が効いてきます。
アニメ第2回で描かれる北条邦時の最期
アニメ第2回では、邦時を預かった五大院宗繁が保身のために裏切る流れが描かれます。
宗繁は邦時を新田方へ差し出し、その結果、邦時は捕らえられて斬首されました。
兄の死を知らされた時行は、あまりの衝撃に耐えられず嘔吐します。
いやもう、視聴者の感情を守る壁まで一緒に崩されたような場面です。
時行は父や兄、家臣、故郷を短期間で失いました。
邦時の死は「幕府が滅びた」という大きな歴史を、弟にとっての生々しい家族の喪失へ変える役割を担っています。
また、アニメ版では宗繁との決着に独自の演出が加えられています。
邦時の悲劇を見せたまま終わらせず、時行が吹雪や頼重と協力して宗繁へ立ち向かうことで、物語としてのカタルシスを生み出しました。
北条邦時の声優は寺崎裕香
テレビアニメ版で北条邦時を演じる声優は、寺崎裕香さんです。
登場場面は限られていますが、穏やかな兄としての雰囲気と、逃亡中の幼い少年が抱える不安が伝わる芝居になっています。
なお、連載開始時に公開されたボイスコミック版では、矢部仁美さんが邦時を担当しました。
集英社のジャンプチャンネルで公開された第1話のボイスコミックにも、邦時が登場しています。
北条邦時と北条時行はどんな兄弟だった?
北条邦時と北条時行は、どちらも北条高時の子です。
『逃げ上手の若君』では異母兄弟として設定され、邦時が得宗家の跡継ぎ、時行がその弟という立場に置かれています。
作品では仲の良い異母兄弟として描かれる
作中の邦時は、時行を追い落として家督を独占しようとはしていません。
むしろ跡目争いを避けるため、自分が後継者であることを自然に受け入れています。
邦時が家督への野心を見せないため、時行も兄へ反感を抱いていません。
つまり、2人を引き裂いたのは兄弟間の争いではなく、鎌倉幕府そのものの滅亡です。
これが痛い。
争っていた兄弟が別れるのではなく、普通に笑い合えた兄弟が大人たちの戦争によって二度と会えなくなる。
邦時の短い登場が忘れにくいのは、この理不尽さがあるからでしょう。
史実では同母兄弟か異母兄弟か断定できない
史実上、邦時の父が北条高時であることは共通しています。
一方、邦時と時行が同母兄弟だったのか、異母兄弟だったのかについては、史料の解釈が分かれています。
邦時の母は、高時の側室で五大院氏出身の女性と考えられてきました。
常葉前という名や、五大院宗繁の妹だったとする説明も見られますが、系譜には異なる記載があり、親族関係の細部まで確定しているわけではありません。
時行の母についても明確な同時代史料が乏しいため、兄弟の母が同じだったと断定することはできません。
『逃げ上手の若君』は、こうした史料の空白を利用して、邦時と時行を性格の異なる仲の良い異母兄弟として描いています。
史実に記録されていない会話や感情は作品独自の表現です。
しかし、家族を失った時行の衝撃を読者へ伝えるうえで、兄弟仲を示す構成には大きな意味があります。
邦時と時行は幕府滅亡前の立場が違った
兄弟の立場を整理すると、邦時は北条得宗家の後継者として公式な儀礼を重ねていました。
一方、時行の幕府滅亡以前の立場については、邦時ほど具体的な記録が残っていません。
| 人物 | 幕府滅亡前の立場 | 幕府滅亡後 |
|---|---|---|
| 北条邦時 | 北条高時の長男で、得宗家の後継者 | 逃亡中に捕らえられ、1333年に処刑されたと伝わる |
| 北条時行 | 北条高時の子で、北条邦時の弟 | 信濃へ逃れ、1335年の中先代の乱で鎌倉を奪還 |
邦時が生きていれば、北条残党が再起する際の中心人物になった可能性があります。
しかし邦時は命を落とし、時行が生き延びました。
時行が受け取ったのは、安定した家督でも完成した政権でもありません。
滅びた一族の名と、奪われた鎌倉を取り戻す役割です。
王座を継いだというより、焼け落ちた御所から旗だけを拾い上げたような継承でした。
北条邦時が得宗家の後継者だった根拠は?
北条邦時は、高時の長男として生まれ、得宗家の後継者に位置づけられた人物です。
誕生時の記録、幼少期の儀礼、元服の場所や名付け方からも、単なる後継者候補ではなく、将来の得宗として扱われていたことが読み取れます。
北条邦時の生年と幼名
邦時は正中2年11月22日、ユリウス暦では1325年12月27日に誕生したとする説が知られています。
この根拠として挙げられるのが、神奈川県立金沢文庫に残る同日付の金沢貞顕書状です。
書状には北条高時のもとに「若御前」が誕生したことが記されており、この若御前を邦時とみる解釈があります。
ただし、「若御前」が誰を指すのかについては別の解釈もあります。
そのため、1325年12月27日という日付は有力な説ではあるものの、史料から一切の疑いなく確定できる誕生日として扱うより、「書状の日付を誕生日とみなす説」と理解する方が慎重です。
幼名は万寿、または万寿丸と伝わり、「若御前」と呼ばれたとも考えられています。
また、邦時は「相模太郎」と称しました。
得宗家の当主は相模守に任じられる例が多く、「相模太郎」という呼称も、邦時が高時の長男として扱われていたことを示す材料になります。
嘉暦の騒動と邦時の後継者問題
北条高時は1326年、病気を理由に執権を辞任して出家しました。
その後継をめぐって、高時の弟・北条泰家を推す勢力と、高時の子である邦時への継承を望む勢力が対立します。
泰家を推したのは、高時の正室の実家とつながりが深い安達氏でした。
これに対し、長崎円喜や長崎高資ら得宗家の有力被官は、泰家が執権となって主導権を握ることを警戒したと考えられています。
そこで注目されたのが、まだ乳幼児だった邦時です。
もちろん、邦時本人が政治を行える年齢ではありません。
邦時が成長するまでの中継ぎとして金沢貞顕が第15代執権に就任しましたが、対立の激化を受けて短期間で辞任しました。
その後、第16代執権となったのが赤橋守時です。
この後継者争いは「嘉暦の騒動」と呼ばれます。
ここで重要なのは、北条高時が鎌倉幕府最後の執権ではないことです。
高時は第14代執権であり、得宗北条家の最後の当主でした。
幕府最後の第16代執権は赤橋守時です。
邦時が継ぐと期待されたのも、直ちに執権職へ就くことだけではなく、北条氏嫡流である得宗家の家督でした。
北条邦時は数え年7歳で元服した
邦時は元徳3年・元弘元年12月15日、1332年1月ごろに数え年7歳で元服したとされています。
元服は、武家の男子が成人としての名前や装束を与えられる儀礼です。
邦時は将軍・守邦親王から「邦」の一字を受け、「邦時」と名乗ったと伝わります。
主君や有力者の名前から一字を与えられることを偏諱といい、政治的な結びつきや身分を示す意味がありました。
まだ幼い邦時に将軍の一字を与え、幕府の御所で元服させる。
この一連の儀礼は、邦時を得宗家の正式な後継者として社会へ示す政治的な発表でもあったと考えられます。
邦時は元服から約1年半後、幕府滅亡の混乱へ投げ込まれました。
名を与えられ、一族の未来を託された直後に、その一族そのものが消えていく。
少年の人生に対して、歴史の展開があまりにも速すぎます。
北条邦時はなぜ処刑された?
北条邦時が処刑された最大の理由は、得宗北条家の後継者として、旧幕府勢力が再起する際の旗印になり得たからです。
邦時自身が軍を率いたからではなく、北条高時の長男として生きていること自体が政治的な脅威とみなされました。
1333年に鎌倉幕府が滅亡
1333年、鎌倉幕府は後醍醐天皇方の攻勢によって崩壊します。
幕府方として西国へ向かった足利高氏、後の足利尊氏が離反し、京都の六波羅探題を攻め落としました。
関東では新田義貞が挙兵し、鎌倉へ進軍します。
鎌倉での戦いに敗れた北条高時と一門の多くは、1333年5月22日に東勝寺周辺で自害しました。
高時はその前に、長男の邦時を五大院宗繁へ、時行を諏訪氏の関係者へ託したと『太平記』は描いています。
兄弟は同じ日に父のもとを離れながら、別々の逃亡経路を進みました。
この分岐が、2人の人生を決定的に変えます。
五大院宗繁が邦時を裏切った
五大院宗繁は北条家に仕えた御内人であり、邦時の母方の親族とされる人物です。
『太平記』巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」では、高時から邦時を託された宗繁が、褒賞を期待して新田方へ少年を売ったと描かれます。
宗繁は邦時に鎌倉から逃れるよう勧めながら、その行き先を新田方へ密告しました。
邦時は伊豆山方面を目指したものの、追手に捕らえられたとされています。
現在の記事や解説では「相模川付近で捕らえられた」と説明されることがありますが、古典本文の表現や諸本には注意が必要です。
また、密告を受けた人物の名についても、現代語訳や研究書で表記に差が見られます。
確実に押さえられるのは、邦時が宗繁の策略によって逃亡先を知られ、新田方に捕らえられたと『太平記』が語っていることです。
宗繁という名にも検討の余地があります。
同時代史料の『北条貞時十三年忌供養記』には、五大院氏の人物として「高繁」の名が見え、『太平記』の「宗繁」は誤記ではないかという指摘があります。
作品で知られる名前と、同時代史料上の実名が一致しない可能性があるわけです。
北条邦時は数え年9歳で処刑された
『太平記』では、捕らえられた邦時は鎌倉へ連行され、1333年5月29日に処刑されたと描かれています。
1325年生まれとみる場合、数え年9歳です。
現在の満年齢に換算すると7歳ほどになります。
数え年7歳で元服を済ませていたとはいえ、自ら政権運営や軍事行動を指揮できる年齢ではありません。
それでも邦時は「高時の長男」「得宗家の嫡子」という血筋によって排除されました。
政治的な論理だけを見れば、旧政権の後継者を残すことは反乱の火種になります。
実際、逃げ延びた時行は1335年に中先代の乱を起こし、鎌倉を一時奪還しました。
新政権側が北条の遺児を警戒したことには、権力維持の観点から理由があったと考えられます。
しかし、その合理性と邦時個人の痛ましさは別問題です。
邦時は政治的な象徴である以前に、父を失い、親族を信じて逃げた幼い少年でした。
歴史を権力者の都合だけで読むと、ここにいた一人の子どもが消えてしまいます。
五大院宗繁は北条邦時を裏切った後どうなった?
『太平記』では、邦時を売った宗繁は褒賞を得るどころか、その不忠を非難されて追われる立場になったと語られます。
ただし、宗繁の末路は軍記物語が持つ因果応報の構成を含むため、細部まで確定した史実とは限りません。
新田方からも不忠とみなされた
宗繁は北条家の後継者を差し出したため、新田方にとって役立つ情報提供者だったはずです。
ところが『太平記』では、その行為が評価されるのではなく、主君を裏切った不忠として問題視されます。
敵を助けたことと、敵から信頼されることは同じではありません。
長年仕えた主家と親族の少年を利益のために売る人物なら、新しい主君も再び裏切る可能性を警戒します。
宗繁の行動は、短期的には新田方へ利益を与えても、武士としての信用を失わせるものでした。
裏切りは、そのまま新しい相手への忠義にはならない。
邦時と宗繁の一件を象徴する一文として、これほど鋭いものはありません。
五大院宗繁の餓死は史実なのか
『太平記』では、宗繁は処罰を恐れて逃亡し、助ける者もなく、最後には飢えによって命を落としたとされます。
ただし、宗繁の逃亡後を裏づける同時代史料は乏しく、具体的な死亡時期や場所も明確ではありません。
そのため「宗繁は必ず餓死した」と史実として断定するのは慎重であるべきです。
『太平記』は歴史上の出来事を知る重要な軍記物語ですが、忠義を守った者と裏切った者の運命を対照的に描く文学作品でもあります。
宗繁の悲惨な末路には、「主君を売った者には報いが訪れる」という物語上の教訓が強く反映されている可能性があります。
それでも『逃げ上手の若君』が宗繁を序盤の敵として強烈に描いた理由は分かります。
時行の「逃げる力」を見せるだけなら、普通の追手でも成立します。
しかし兄を売った宗繁を相手にすることで、時行の逃亡は生存競争であると同時に、失った家族と向き合う最初の戦いになったのです。

北条邦時の史実と『逃げ上手の若君』の違いは?
『逃げ上手の若君』は史実の大きな流れを踏まえながら、人物関係や感情、事件の見せ方に創作を加えています。
邦時については、史料に残らない兄弟の日常を補い、時行が受けた衝撃を視覚的かつ感情的に伝えている点が大きな特徴です。
兄弟の会話や性格は作品独自の描写
史料から確認できるのは、邦時と時行が高時の子であり、幕府滅亡後に異なる人物へ託されたことなどです。
2人が普段どのように会話し、互いをどう思っていたのかは分かりません。
作中では、邦時は穏やかで争いを好まない兄として描かれます。
時行との関係も良好で、邦時の死を知らされた時行は激しい身体反応を示しました。
これは史料に記録された出来事ではなく、漫画として兄の死の重さを伝えるための表現です。
史実の空白へ感情を加えていますが、邦時を単なる系図上の名前で終わらせず、「時行が実際に失った家族」として読者の記憶へ残す効果があります。
作品では北条邦時が時行より年長に見える
史実の邦時は1325年生まれとする説が有力です。
一方、時行の正確な生年は確定していません。
『逃げ上手の若君』第1話では時行が8歳と設定されているため、1325年生まれの邦時を現代の満年齢で考えると、年齢関係に違和感が生じる可能性があります。
作品は史料上の年齢を機械的に再現するのではなく、邦時を頼れる兄、時行を自由に逃げ回る弟として分かりやすく配置しています。
歴史漫画では、人物の年齢や関係を読者が一目で理解できるよう調整することがあります。
邦時についても、年齢の厳密な再現より、得宗家の跡継ぎである兄と、その陰で自由に過ごす弟という対比が優先されたと考えられます。
五大院宗繁との決着にはアニメ独自の演出がある
原作とアニメはいずれも、宗繁が邦時を裏切った事実を時行の最初の戦いへつなげています。
アニメ版では戦闘の流れや見せ方に独自の要素が追加され、時行たちの連携や宗繁の卑劣さがより明確になりました。
作品上の宗繁は、史実の再現だけを目的とした人物ではありません。
「逃げることを恥とみなす武士社会」と、「生きるために逃げる時行」を対立させる序盤の装置でもあります。
邦時を売った宗繁が保身のために逃げようとし、時行が未来をつかむために逃げる。
同じ逃亡でも、その目的は正反対です。
この対比によって、本作は「逃げる行為そのものに善悪があるのではなく、何を守るために逃げるのかが重要だ」と示しているように感じます。
北条邦時の死は時行の物語に何を残した?
邦時の死は、時行が北条家の生き残りとなった経緯を説明するだけの出来事ではありません。
『逃げ上手の若君』の中心にある「逃げて生き延びること」の価値を、失敗した側から浮かび上がらせています。
兄弟の運命を分けたのは保護者の選択
邦時も時行も、幕府滅亡時には自力だけで戦乱を生き抜ける年齢ではありませんでした。
2人は父の命令によって、それぞれ信頼された大人へ預けられます。
しかし邦時を預かった宗繁は裏切り、時行を連れ出した諏訪頼重たちは北条再興のために動きました。
兄弟の明暗を分けたものは、単純な逃走能力の差ではありません。
命を預けられた大人が約束を守ったかどうかです。
邦時は逃げることを諦めたわけでも、逃走が不得意だったわけでもありません。
頼るしかなかった相手が、敵より先に逃げ道を塞ぎました。
一方、時行の才能も、諏訪氏の庇護や逃若党の協力がなければ発揮できません。
本作における逃亡は、一人の天才が成立させる個人技ではなく、信頼できる仲間とともに未来を確保する共同作業なのです。
邦時が生きていれば中先代の乱は変わったのか
ここからは、確認できる事実を基にした筆者の考察です。
邦時が逃亡に成功していれば、1335年の中先代の乱で北条残党の政治的な旗印になった可能性があります。
邦時は高時の長男であり、将軍・守邦親王の偏諱を受けて元服した得宗家の後継者でした。
北条氏の正統な継承者を求める勢力にとって、邦時の存在は非常に分かりやすい結集点になります。
邦時が名目的な当主となり、諏訪頼重らが軍事や政務を担う形も考えられたでしょう。
時行が軍事行動の中心となり、兄を補佐する展開もあり得ます。
ただし、兄弟はいずれも幼少でした。
邦時が生きていたとしても、現実の戦争や政治を主導したのは諏訪氏をはじめとする周囲の大人だったと考えられます。
それでも「高時の長男が生きている」という事実には、北条残党をまとめる力があったはずです。
邦時の処刑は、幼い一人の少年を排除しただけではありません。
旧幕府勢力が再結集する際の象徴を早い段階で失わせる、政治的な意味を持った処置だったと考えられます。
邦時の死後に時行が鎌倉を奪還
邦時が処刑された約2年後の1335年、時行は諏訪頼重らとともに挙兵しました。
中先代の乱です。
時行側は信濃から関東へ進出し、小手指原や女影原などで足利方を破りました。
さらに鎌倉を奪還し、一時的に支配します。
時行が鎌倉を押さえられた期間は長くありません。
足利尊氏が東国へ下ると時行側は敗れ、頼重らも命を落としました。
それでも時行は再び逃げ、その後も南朝方として鎌倉奪還を目指します。
邦時が生きられなかった時間を、時行は逃亡と再起によってつなぎました。
時行本人が兄の遺志を意識して戦ったと証明する史料はありません。「兄の仇討ちが目的だった」と断定することもできません。
ただ、家族や故郷を失った経験が時行の人生と無関係だったとは考えにくいでしょう。
『逃げ上手の若君』における鎌倉は、単なる領地ではありません。
父や兄と過ごした場所であり、奪われた少年時代そのものです。
時行が笑顔で鎌倉を目指す姿の背後には、戻っても二度と会えない家族がいる。
この取り返せなさがあるからこそ、時行の奪還劇は胸へ刺さります。
北条邦時についてのよくある質問
北条邦時の年齢や兄弟関係、作品で描かれる範囲について、確認できる情報を整理します。
史料によって説明が分かれる事項は、確定情報と作品設定を分けて読むことが大切です。
- Q北条邦時は『逃げ上手の若君』の何話で死亡する?
- A
原作漫画では第2話、テレビアニメでは第2回「やさしいおじさん」で、邦時が五大院宗繁の裏切りによって処刑されたことが明らかになります。
邦時本人は第1話・アニメ第1回から登場しています。
- Q北条邦時は北条時行の実の兄?
- A
邦時と時行は、どちらも北条高時の子であり、邦時が兄です。
『逃げ上手の若君』では異母兄弟として描かれています。
史実では時行の母が明確ではなく、同母兄弟か異母兄弟かを確実に断定できません。
- Q北条邦時は何歳で亡くなった?
- A
邦時は1333年5月29日、数え年9歳で処刑されたと伝わります。
1325年12月27日生まれとする説に従えば、満年齢では7歳です。
ただし、誕生日は金沢貞顕書状にある「若御前」の誕生を邦時とみなす解釈に基づきます。
- Q北条邦時を裏切った五大院宗繁は実在した?
- A
五大院氏の人物は同時代史料にも確認できます。
ただし、『太平記』が記す「宗繁」という名前については、『北条貞時十三年忌供養記』に見える「高繁」の誤記ではないかという説があります。
邦時を売った経緯や宗繁の餓死についても、主に『太平記』の記述に基づくため、軍記物語としての脚色を考慮する必要があります。
『逃げ上手の若君』北条邦時の生涯まとめ
北条邦時は、第14代執権で最後の得宗・北条高時の長男であり、北条時行の兄です。
得宗家の後継者として数え年7歳で元服し、将軍・守邦親王から一字を受けて「邦時」と名乗ったと伝わります。
しかし1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、父から保護を任された五大院宗繁が邦時を裏切りました。
『太平記』によれば、邦時は逃亡先を密告されて捕らえられ、同年5月29日に数え年9歳で処刑されます。
一方、弟の時行は諏訪氏の庇護を受けて信濃へ逃れ、1335年の中先代の乱で鎌倉を一時奪還しました。
兄弟の運命を分けたのは、勇気や才能だけではありません。
邦時は信じた保護者に売られ、時行は約束を守る人々に支えられた。
この対比が、『逃げ上手の若君』における「逃げる」という行為へ深い意味を与えています。
逃げるとは、恐怖から目を背けることではない。
亡くなった者が見ることのできなかった明日へ、命と可能性をつなぐことです。
時行が笑いながら戦場を駆け抜ける姿を見るとき、その背後には逃げ切れなかった兄・邦時がいます。
兄がたどり着けなかった未来を弟が走っている。
そう考えると、時行の一歩一歩は軽やかなのに、胸へ落ちる重さだけはとんでもない。
これが北条邦時を知ったあとに見える、『逃げ上手の若君』のもう一つの景色です。
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